目で見てなんなのかが分かるもの

たとえばね、昨日もらったアスパラも、こないだもらったなんとかっていう葉っぱも、だいぶ前に食べ尽くしたワサビ菜や、これから食べれる甘いイチゴやさくらんぼ、夏になればおいしいスイカや川で捕まえた鮎だったり、秋になればおいしいぶどうやリンゴも、もちろん毎日食べてるあきたこまちも、みんなここのもの。

ぼくらがいつもあーでもないこーでもないと悩んだり、あっち行ったりこっち行ったりしてあくせくしている一日も、み~んなこの中のたった一つのピースなわけで、そんなピースなんかなきゃなくてもこの景色は毎日きれいにあしたもある。

ただ、ちっぽけに思うそのピースがみんな間違って組まれちゃうと、このおいしい景色もいつの間にかなくなっちゃうのかなと思うと、自分もちいさなピースなりにちゃんと居場所にとどまらねばと、なんだか気が引き締まる。

建築だって、食べ物だっておんなじだ。

いろいろ考えてうまくやろうやろうと思って考えると、どんどんツボにはまって息苦しくなることがある。その息苦しさは見えないものをつかもうとすることから来る不安を予測できているからなのであって、全く何も考えずあっけらかんとばかりしていては、きっとアリとキリギリスみたいなことになり、本当に手詰まりになってしまう。気をつけなければ。

 

気晴らしは必要。

考えても、もう無い知恵の限界なんてどこなのかもわからないし、まずいろいろやってみよう。怪我するからサッカーやらないなんて言わずに、まずちょっとやってみりゃいい。

やってみると案外夢中になって、思いがけないお宝だって手に入ってみたりする。

いい景色をみると、なんだかいい気持ちになる。

ただ、しっかりできる対策はしとかないと、できる予定の住宅も寒々しくなるし、おいしいはずのワラビもガシガシして木っぽくて残念になる。

だからといって、せっかく目の前にある本物を選ばず、扱いやすいだとか、なんとかっぽいだとかというなんだかしっくりこない理由や、最近できたばかりだから良いはずだという思い込みですぐに目新しいものを良しとするのだけは気をつけよう。もちろんケース・バイ・ケースなのだけれども。

 

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なんだか言いたいことはうまくかけないけれども、、、

建築も食べ物もおんなじで、美味しそうに見えるものと、本当に食べて美味しものはきっと違うんだなって、今更ながらにしっくり来ている今日このごろなのです。

出処のしっかりしているものは安心で、なんだかよくわからないものにはお金を使う気にもならない。(もちろんこれもまたケース・バイ・ケースなのだけれども。)

美味しいもの、良いものは、きっと人の手できちんと直せたりできるし、そもそもあたりまえのようにここにずっとあるものがいいものなんだと実感している今日このごろなのです。ハンバーガーやラーメンや、何を注文しても美味しくて同じ味の中華料理店にドハマリしたときもあったけど、甘いも苦いもしょっぱいもあって、おいしいんだなと。

もちろん個人的に思うことなのだけれど、せめて一緒に景色見に行って長い笹の茎でケツを突きまくってくる子どもたちには、今は「さっぱり?なんのこと?」なんだろうけど、「泥臭いけどこれが本物なんだ、うまいんだこれが」みたいなところもちゃんと経験させてあげたいなと思うのです。「◯◯風」な世の中にはなってほしくないなとつくづく思うのです。

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