その意味 | ヘリテージとボロボロの境界線

先日、友人の写真展があるというのでお邪魔した旧米倉庫。(下の写真はもうなくなってしまった米倉庫)
推測の域でしかないが、なるほどだからそうしたのかとか、しばらく眺めるとわかってくることがあって。色々思い出したのを思い出した。

個人的な話になるけど、新築住宅の現場に浸っているとととても忘れがちになるのが、将来の見え方。それはもちろん視覚的なことも含まれるが、その建物の姿としての見え方以上に、そこにある建物がきちんとして年をとっているなという凛々しさのように感じられる佇まいの方の見え方。といういうよりもむしろ在り方のほうがしっくりくのかもしれない。

ステキかどうか。

そう、しっくりくかどうか。

そこにある理由。それが見えるかどうか。あってよいのかどうか。本来の意図と同じかどうかはさておき、古びてくたびれているだけではなく、環境的にエコとかお金的に無駄とかではなく、そこにある理由。

そのずっとそこにいた理由ってすごく大切なことだったから、建物はそこにあったのであって、その建物がどう使われているかはさほど問題ではないように思うのです。

意図と合っていないから壊す。利便性が悪いから壊す。ではなく、うまく使う。うまく使えるように直す。それが良いし、しっくり来ると思うんだけどなあ。

100円ショップのものってすぐヘタるし、結局ゴミじゃん。ゴミに100円払うのバカっぽくない?って言ってた友人がいたけど、まさにそれ。もちろんそういう役割のものもこのご時世では必要なのかもしれないけど。しかしだ。かんたんに壊して簡単に建て直して、ピカピカになって、その時の事業は成功!やったー!で終わりじゃないので、その建物の意味は。

その意味。それをみんなが理解できればヘリテージとなるのだ。遺産として価値がつくのだ。なんの意味もないだろうと理解してしまえば、ただのボロボロだ。かなしいけどそれがまっとうな理由なのだろう。

なんて思い出しながら、外部の物置になぜこんな戸車を使ったのだろうと思うのでした。(きっとここにも理由はあったのかもしれないけど)
もしこの戸車が、著名なプラスチック作家の作品としての理由があったのであれば、企業努力の即断でゴミ箱行きとはならなかったのかもしれないもんな。

 

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